安土城 天下布武の拠点
-五層七階の天主は3年で…。今も残る壮大な城跡-
安土城 大手道 | 伝羽柴秀吉邸跡 |
天守礎石 | 天守からの伊庭内湖、琵琶湖の展望 |
名称:安土城 所在地:近江八幡市安土町下豊浦、東近江市南須田町 標高:199m(安土山) 比高:99.7m 築城~廃城:天正7年(1579年)~天正10年(1582年) |
探訪日:2011年7月31日 天候:晴れ
コース:大手道~天守~摠見寺~大手道
【誰もが知る安土城の歴史】 1 天正4年(1576年)正月、信長は天下布武の拠点を安土に築くことを宣言。 佐和山城主丹羽長秀を総普請奉行に、室町幕府御大工岡部又右衛門を大工棟梁として工事進捗。 2 天正7年(1579年)、天主が完成。天正10年正月、完成祝賀会。 ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、「日本史」の中で、天主について「我らの塔よりも遥かに気品があり、壮大な 別種の建築。…七層から成り、内部・外部ともに驚くほど見事な建築技術により造営Sれた」と記している。 3 天正10年6月2日未明、本能寺の変。 留守居役の蒲生郡日野城主の蒲生賢秀は「信長公心尽くしのものを灰にし、混乱に乗じて奪い取れば後々笑い者にな る。」と、財宝を運び出し火をかける意見に反対し、居城に引き上げた。 4 同年6月15日、天主、本丸炎上。 太閤記は、明智光秀の女婿、秀満が山崎の合戦の敗報を受け、放火したという。ルイス・フロイスは秀満退却後に入城 した信長の二男信雄が火を放ったという。信雄の恐怖心にもとづく狼狽ぶりが原因であったと。これが有力説らしい。 5 天正13年(1585年)、羽柴秀吉による八幡山城築城に際して、天主・本丸以外の残っていた多くの建物は、城下町ご と移転させられた。 6 秀吉は信長を弔うため城跡に墓を造営し、城と墓を聖地として守ることを摠見寺に託した。 7 徳川幕府でも、将軍の朱印という形で代々同じ配慮が続けられた。 (「近江戦国の道」淡海文化を育てる会編、「近江の山城ベスト50」を歩く 中井均編より) |
当時、安土城は三方を琵琶湖の内湖に囲まれていた。 | 現在は干拓され田んぼに。 |
平成元年度から20年計画の「特別史跡安土城調査整備事業」が行われ、直線で180mもある大手道の全容が明らかになった。
山中に多くの遺構が残るが、赤のルートでたどった。 |
【探訪記】
多くの遺構が残るが、散策は上記の赤線ルート。
大手門跡から入り、すぐ左右の伝羽柴秀吉邸跡の大きさに驚きながら、180mの大手道を登り、摠見寺への分岐から右折して天主を目指す。黒金門跡を通って、信長公本廟に立ち寄った後、本丸、天主へ。
伝羽柴秀吉邸跡ー厩のあった下段と堅固な石垣と、上段の主殿跡 |
大手道に戻り、一段一段と。
石段には踏み石として石仏も | まっすぐに大手道 |
石仏が踏み石というのは、信長の排仏論者という考えもあるが、城とともに摠見寺も築いているなどから、結局、工事を急いだ結果手近な石を無造作に使ったものということらしい。排仏ではないが、それほど石仏に意味を感じてなかったような。
黒金門跡 | 天主・本丸など主要部の概略図 |
信長公本廟 | 本丸あたり、天主下の石垣 |
さすがに天下布武の城、山頂部にも立派な石垣が築かれている。
「本廟」は、天正11年2月、秀吉は信長公ゆかりの安土城二の丸跡に太刀、烏帽子、直垂などの遺品を埋葬し本廟とした。
「本丸」は、「信長公記」によると本丸御殿には、天皇を招き入れる「御幸の間」があったとされ、慶長年間に改修された京都御所内の天皇の住居である清涼殿と酷似した構造であったことが判明。
そして、本丸から石段をひと登りで、天主へ。
天主の礎石跡 | 天主からの眺望:遠く琵琶湖 |
天主は、前記のルイス・フロイスの驚きのとおり、ヨーロッパにもないような壮大さであったと。今は礎石が1、2mおきに整然と並ぶだけだが、この部分は天主の穴蔵(地階の部分)で、その上にさらに大きな天主が聳え、五層七階、高さ33mの木造高層建築。
五階(六重)は、正八角形で内部は朱塗りで釈迦説法図などの仏画が描かれ、六階(七重)は正方形で、外観は金箔で仕上げられ、内部は黒漆塗り、孔子や孔門十哲などの金碧障壁画が描かれていた。狩野永徳の障壁画や装飾を配していた。
摠見寺 三重塔(重文) | 二王門(楼門) (重文) |
帰りに、摠見寺を廻ってかえる。天正4年、安土城築城の際、信長が他所より移築し、本丸西方の峰に自らの菩提寺にしたもの。その後、焼失し、現在は仮本堂が大手道横の伝徳川家康邸跡に建てられている。
元の場所には、天正年間に、甲賀の長寿寺から移築された三重塔と、同じく甲賀から移築された二王門(ともに重要文化財)が山中の木々に囲まれている。