七尾城

名称:七尾城(国史跡)

探訪日:2019年12月8日

所在地:石川県七尾市古城町

標高:300m

比高:250m

築城・廃城

 能登国の守護・畠山氏(1408~1577)が築いた城館跡で、石動山系に築かれた城域は南北2.5km、東西1.0km、面積は252.6haにおよび、全国屈指の規模で日本5大山城の一つにも数えられる。

 山上から山麓までの自然地形を巧みに利用し、七つの尾根筋を中心に多数の曲輪を連ね、山麓には城下の町並みが形成され、京風の能登畠山文化が華やいだ。

天正5年(1577)の上杉謙信の攻撃によって落城、169年にわたる畠山氏の領国支配の幕が閉ざされた。落城後、一時上杉氏が入り、その後天正9年(1581)に織田信長から能登一国を与えられた前田利家が入城。天正10年(1582)から11年頃に、港に近い小丸山での新たな築城により、七尾城は城としての機能を失った。前田利家が小丸山城に移ったため市街地も当該地で発達し、七尾城はその後の開発等を免れたため、当時の遺構が良好に残っている。

 室町幕府三管領(斯波氏、細川氏、畠山氏)の一つである畠山氏は越中の守護を務めていた畠山基国が明徳2年(1398)に能登の守護に任命されその後、河内、紀伊の守護も兼務し管領に起用された。

能登畠山氏は、基国の次男満慶が能登国のみの守護になったことに始まる。当初は守護は在京し領国では守護代の遊佐氏が府中の守護所で政務にあたった。応仁・文明の乱(1467~1477)後、文明10年(1478)に3代守護畠山義統が能登に下向した。5代慶致の頃に守護所も府中(山麓)から七尾城に移されたと言われる。7代義総は名君と言われ七尾は小京都と呼ばれるほど栄え、公家や歌人などの文化人が都から七尾に訪れ、たびたび和歌や連歌の会が催された。

 8代義続の時に統制が乱れ、畠山七人衆と呼ばれる重臣の権力グループに実権が握られるなど衰退し。天正5年上杉謙信の侵攻を受けて滅亡した。

 

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